『わたしは"無"』 -ステレオタイプの逆をいくへそ曲がりSF短編集
「アバター」のストーリーがあまりにも読めすぎてしまうものだっただけに、一見ありきたりな設定から意表を突く話へと突き進むSFはないものかとあれこれ思いを巡らせたとき、その最右翼として浮上したのが奇才エリック・フランク・ラッセルの短編集『わたしは”無”』でありました。絶対予想通りの結末にはしないぞという作者の熱い思いが伝わってくる(笑)傑作短編集であります。
・・・SF小説の分野では、宇宙を駆けるロケット船、その乗務員がさまざまな障害を乗り越えて勝利をおさめる、というテーマがいろいろな形で取り上げられている。本書では、何のむくいもないままに終わる災厄の物語をご覧になるに違いない。
触手を持ち、皿のような目をもった怪物のテーマについてもたびたび取り上げられており、それが人類を脅かす、というのが大方の場合である。だがここにはそれとは正反対な物語がある・・・・
これは『わたしは”無”』(原題Somewhere a Voice-どこかで声が・・・)、に著者ラッセル自らが記した序文の一節です。ラッセルは1905年生まれですから1917年生まれのA・C・クラークより一回り年上で、SF小説家の草分けの一人といってもいい作家ですが、その彼は1950年代前半までに書かれた作品を集めたこの短編集において、ワンパターンに陥りがちなSF小説の定形にいち早く反旗を翻し、さまざまな試みを行いました。
ラッセルはワタクシの好きな作家の一人ですが、しかしそれは彼が脱ステレオタイプをめざしていたからだけではなくて、小品なれども心に残るというか、SFには珍しい柔らかい情緒を湛えた作品が多いということに尽きます。SFの定形から外れたギャップをヒューマニズムが埋めているわけです。
例えば本国では短編集の表題にもなった『どこかで声が・・・』はロケットの乗務員が「何のむくいもないままに終わる」救いがない物語なのですが、しかしこれはエゴイズムのかたまりのような遭難者たちが自己犠牲と助け合いの精神に目覚めてゆく話でもあって、『フランダースの犬』のような読後感が残る佳作です。
また「触手を持ち、皿のような目をもった怪物」が登場する『ディア・デビル』は、核戦争によって荒廃した地球にやってきた火星人探検隊のうち、一人地球に残った詩人(の火星人)が人間の子どもたちと交流する様を暖かく描き、最近再読した際不覚にも涙がこぼれました(それにしても1950年初出時の雑誌イラストはあんまりだと思います笑)。
こういう作品を読むと、エンタテイメント一辺倒の現代小説の中にあっても、1950年代から60年代にかけてのSFには汲めども尽きぬ妙味を湛えた人類遺産(笑)が、数多く眠っていることを痛感させられます。『わたしは”無”』は品切れ中で入手困難という有様ですから、なんとかしてほしいものです。
『パニック・ボタン』もまた佳作の名に恥じない短編集です。全体としては『わたしは”無 ”』より軽妙洒脱な趣がありますが、美しい女性だと思いこんで長年文通を続けてきた宇宙人がキノコそっくりで強烈な悪臭を放つ生き物だと知った老人の心の動きを描いた『追伸』他、ヒューマンで感動的な作品も収録されています。どうせのことなら話題の映画「アバター」も、パンドラの原住民をキノコかゲジゲジの化け物にでも設定すれば、感動もひとしおだったことでありましょう(笑)。
ラッセルといえば、一部では代表作のようになっているのが『超生命ヴァイトン』でありますが、うーんこれはねえ(汗)。導入は面白いんですね、世界的な科学者が次々に謎の死を遂げていくわけです。しかもその学者さんたち、奇妙なことに体にはべったりヨードチンキが塗られていて、しかも解剖していみると体内からメスカリンとメチレンブルーが検出される。ある学者は死ぬ直前、虚空に向かってピストルを発砲している。いったいこれは何を意味するのか・・・。
お暇でしたらオンライン古書店でも漁ってみてください。ワタクシといたしましては、復刊希望No.1はなんといっても『わたしは"無"』、次いで『パニック・ボタン』ということで、この意見が今後変わることがあろうとは思えません(笑)。
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