森達也はアーサー・C・クラークをあまり高くは評価しない
英国生まれのSF作家の大御所アーサー・C・クラークが今年(2008年)の3月に90歳で大往生を遂げてからというもの、彼の名前を新聞紙等で見かける頻度が高くなった。彼とセットとなって紹介される作品は、たいてい『2001年宇宙の旅』、そして『幼年期の終わり』である。
11月9日朝日新聞朝刊の読書欄でも、作家の森達也が『幼年期の終わり』を取り上げている。彼は「アーサー・C・クラークという作家を、あまり高くは評価しない」のだが、それはなぜかというと「スタンリー・キューブリックによって映画化された『2001年宇宙の旅』も含めて、『宇宙のランデブー』や『2010年』、『2061年』『3001年』と続く『宇宙の旅』シリーズは、回を重ねるごとに凡庸な作品になってしまっている」のが主な理由であるらしい。
そんなクラークの「凡庸」な作品群のなかにあって、『幼年期の終わり』だけは「別格」であり「圧倒的」だといういうのが森のいわんとしていることなのだが、『幼年期』がSFという狭く閉ざされた世界を遥かに超えて、有史以来人間が産み出したあらゆる物語のなかで永遠に語り継がれる名作であることは論を待たないとしても、クラークが本来的に凡庸な作家であったという森の主張、そして彼の示した根拠は、なんと申しましょうか、噴飯ものというか全く話にならない見解である。
彼は高校生のとき(恐らくは1969年)に映画「2001年宇宙の旅」を観て、そしてクラークを読み始めたのだという。その彼が『宇宙の旅』や『ランデブー』を引き合いに出してクラークを凡庸と断じている理由がわからない。これでは彼は真のクラークを知らず、1970年代以降の新しい作品しか読んでいないと思われても仕方がない。
クラークは30数点のSF長編をものしているが、うち20点以上が70年代以降に書かれた作品である。だから森にしろ誰にしろ、70年代以降に書かれた作品群にもクラークの真髄が現れている、またはそれらによって作家の真価が評価できると考えるのは無理もないことである。それにクラークは書き続けていた。多くの読者にとってクラークは同時代の現役作家のように映っていたことだろう。
しかし70年代以降のクラークはもうクラークではなかった。真のクラークは1960年末で終わっていたのである。相当高齢になるまで書いてはいたが、彼の真価は1960年代までに書かれた作品のなかにのみ存在しているのだ。
クラークの読者にはよく知られていることだが、クラークは小説を書くのがしんどくなって1979年の『楽園の泉』を最後に一度筆を折っている。70年代に発表した他の2作品(『宇宙のランデブー』と『地球帝国』)も傑作と呼ぶのは憚られるできばえで、彼は絶筆宣言の10年も前に創造的な物語が書けなくなっていたのである。宇宙エレベーターという魅力的なアイディアのおかげでどうにか『楽園の泉』を完成させた彼が、この作品を最後に作家稼業から足を洗おうとしていたとしても不思議にはあたらない。それにクラークはそのときまでに十分過ぎるほどの傑作群を残していた。
それではなぜ80年代以降も彼が作品を書き続けていたかといえば、それはワード・プロセッサ(後にはPC)が登場したためだった。原稿を電子的に書けるようになって、執筆や推敲が飛躍的にラクチンになったために彼はまた小説を書き始めたのだが、それは引退したご隠居の手慰みというか惰性とでもいった作品群で、60年代までの作品とは比べるべくもないものだ。
だから80年代以降の作品群はいうにおよばず、『2001年宇宙の旅』以降のクラーク作品は、どれも往年の大作家の片鱗が時折うかがえるといった程度のものに過ぎず、それらを以てアーサー・クラークを評価することなど話にならないほど愚かなことである。
それでは真のクラーク作品とはどういったもので、どう解釈すべきか。そんなことは元SFマガジン名編集長で『幼年期の終わり』も訳出した福島正実が40年も前にやったことだけど、ワタクシとしても懐かしいので、クラーク作品はこれから徐々に再読していくことにいたしましょう。
それにしても森の原稿に朝日の記者が付けた(としか思えない)タイトルには心底あきれたね。なに、『幼年期の終わり』が「『統治』される安らぎ シニカルに描き出す」だと? おいコラ、朝日新聞読書欄担当記者。即刻読書欄の担当から外れるか朝日を辞めるか、さもなくば襟を正して『幼年期』を読んで、なんというタイトルを付けてしまったのだと心の底から恥じてお遍路にでも出てください。
■変奏曲『幼年期の終わり』
朝日新聞紙上で森達也が紹介したのはハヤカワSF文庫版の『幼年期の終り
』、福島正実訳である。恐らく最も多く読まれている『幼年期』だと思うし、この版に問題があるわけではないが、ただこれは本邦初訳本ではない。
初訳版・初出版本は創元推理文庫の『地球幼年期の終わり 』。原題にない「地球」が付いているのは、ただの『幼年期の終わり』じゃわけがわからないと思ってのことだろう。今日販売されているものが初訳と同じかどうかわからないが、ワタクシが読んだ創元版ではオーバーロードが「上主」、オーバーマインドが「主上心」と訳されていて、今思うと訳者の苦労が忍ばれる。
最近は『幼年期』は真に文学的な古典なのだといわんばかりのこんなのも出ているね。中身は見ていないので何ともいえないけど、やたら古典を新訳する最近の傾向には疑問を感じることが多い。村上春樹なんかひどいもんだ。
『幼年期の終わり』に最もテーマが近いものは、最初期の短編「太陽系最後の日」で、これはハヤカワの『明日にとどく』に収録されている。事実上のデビュー作である「太陽系最後の日」ばかりが引き合いに出されるので、クラークは気を悪くして「私の最高傑作が『太陽系最後の日』だというのなら、デビュー以来私はずっと下降線を辿ってきたことになる」といったのだとか。いずれにしても事実は彼の自虐的な言葉とは裏腹で、『幼年期』と読み比べて見ると、クラークがいかに作品の幅と深さを増していったかとてもよく分かる必読の作品だ。現在品切れ中のようで残念。
長編では『銀河帝国の崩壊 』、およびそれを膨らませて書き直した『都市と星』が、種族としての人類をテーマにしていて『幼年期』に一番近い。『銀河帝国』の原題は『Against the Fall of Night(夜のとばりに抗いて)』だから随分滅茶苦茶なタイトルを付けたものだ。『都市と星』はハヤカワから出ていたが、なんと品切れ中である。どうにかしてくださいよハヤカワさん!
『2001年宇宙の旅 』もテーマは『幼年期の終わり』に近いものがあるといえばあるが、やはり「2001年」は映画の文脈で語られるべき作品だろう。ただ「2001年」についてあれこれ思いを巡らすのが好きなら、キューブリックがクラークに協力要請する契機となった短編「前哨」については一読の価値がある。同名の短編集 がハヤカワから出ていたがこれも品切れ中である。まったくモー(涙)。
福島正実の受け売りみたいになっちゃうけど、クラークには「種としての人類」、そしてその行く末を思弁的な物語に仕立てた以上のような傾向の作品の他に、科学的事実・予測に厳格に基づいて、近未来世界をリアルに描いた一連の作品群がある。こちらの方も宝の山なのだが、ここではとりあえずの1冊として『太陽からの風 』をあげておこう。
最後の1冊はエッセイ『楽園の日々 』。抑制が全く効かなくなって、どうでもいいようなことを垂れ流すように書き続けた晩年の彼の筆がよくわかる。これを読むとジャック・ケルアックを「あれは小説を書いているのではない。タイプを叩いているだけだ」と酷評したカポーティの言葉を思い出す、って俺もか(滝汗)。
彼が老境に達した1980年代・90年代、クラークはことあるたびに「2001年に起きる出来事をこの目で必ず見届けるつもりだ」といい続けてきたが、その願いは見事に叶えられた。
木星を目指して飛行中の宇宙船ディスカバリー号のクルーがHAL9000によって殺害され、1人残ったデイビッド・ボーマンがスター・ゲイトに吸い込まれてスター・チャイルドとなった「2001年」を7年も超えて、サー・アーサー・チャールズ・クラークはついにこの世を去ったのである。彼はいまスター・チャイルドとなって、青く美しく輝く地球を見守っていることだろう。
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